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 高松時代(昭和49年)に,トミーの9mmの下回りを使った気動車やピコのバリキットなどで,軽便鉄道を経営しかけました。レイアウトは,バックマンのレールをコンパネに打ち付けていましたが,シーナリィもストラクチャもないものでした。しかし,本線に集中するために全部を譲りました。その代わり,宮沢のD50(後にD60に改装),ロコモデルのモハ80系4連,しなのマイクロのクモル23 (ああ、事故歴)などが入線してきて,一時,軽便鉄道から撤退しました。
(香津山線)

 その後,倉敷に帰ってきてから,600×450のベニヤ板にピイコのレールを打ち付け出しました。レイアウトプランは, エンドレスにホームそれに機関庫とヤード。中村汪介氏の三津根鉄道のような配置になりました。自分の軽便鉄道のイメージは田んぼの中(平野部)を走る姿しかなく,平面的なレイアウトになっています。

 トレイン誌に記事のあった,ピンホールカメラを手持ちのキャノンAE−1で作り上げて,当時住んでいた家の2階のベランダで撮影しました。バックに写ってしまった手すり や手前の台枠などは,画像処理をしています。’02.05.12,お話の都合で香津山軽便鉄道から藤倉軽便鉄道に改名しました。 その後、丹蕪麓軽便鉄道と組織替えをし、香津山線となりました。

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踏切での出会い

気動車の到着

混合列車の到着

機関庫の前で

機関庫の裏手に休む車輛達

併用軌道でのホジとボンネットバスのすれ違い

駅の遠景

 このレイアウトは,いつから作り始めたか,記憶がありません。1985年には,もう大分できていました。駅舎などのストラクチャーは,乗工社のキットを組み立てたり,自作をしたりしました。91年には,1棟分だけ建物を残して完成しました。民家を造ろうと思っていたのですが,できていません。そこには,倉庫をおいたり,詰め所をおいたりしていました。                

 このレイアウトでは,夜景も楽しめるようにしていて,気動車や,コッペル,雨宮などが走り回りました。しかしそのうち,ピイコのポイントのスプリングが跳んで(溶けて)しまいポイントがきちんと切り替わらなくなりました。ご存じの通りピイコは,ポイントの方でロックしますからここが壊れては,動かせなくなくなってします。   

 現在は,展示台になっています。軽便の走るレイアウトを建設中の本線の中に組み込むか,新しく別のレイアウトを作り直すか思案中です。


現在の姿 

(デジカメで撮影,一部処理をしています。)